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下魚とされていた江戸時代。
「目黒のサンマ」を食べたのは?


 サンマの季節がやってきた。北海道の東方沖で豊富な餌をたっぷり食べ、脂の乗ったサンマが日本列島に沿って南下し、九月には三陸沖、十月には房総半島沖へ到る。

 今では秋の味覚の代表となったサンマだが、日本人が食べるようになったのは意外に新しい。江戸時代のはじめ頃、延宝年間前後(1670年代)に、紀州・熊野の漁師が八手網を用いて漁獲したのが始まりといわれる。

 南下を続けたサンマは房州から相模沖、さらに11月頃には紀州・熊野沖に達し、その前後に産卵するが、この頃には脂が抜けて味が落ちる。文献上の初出である『本朝食鑑』(元禄5年、1692)に、「味最も劣る」とあるのはそのためであろう。
 
 サンマ漁は、巻網の一種である「サイラ網」が発明されて普及し、元禄年間(1688~1703)までには房総地方に伝わった。ここで獲れるサンマは脂がのって美味で、サンマの産地は紀州から房州に移った。

 サンマといえば落語の「目黒のサンマ」が良く知られている。このなかで、サンマを食べたがる殿様を「これは下々が食すもので、殿が召しあがるようなものではござらぬ」と言って家来が止める場面がある。実際、サンマはもともと下賎な魚とされており、『和漢三才図会』(正徳3年、1713)にも「魚中の下品(げぼん)なり」とある。

 寛政年間(1790代)に記された『梅翁随筆』には、サンマが広く食されるに至った以下のような興味深い記述がある。

「あま塩のさんまといふ魚、明和(1762~72)頃迄は喰ふもの多からず、しかるに安永改元(1772)頃、『安くて長きはさんまなり』と壁書せしが、その頃より大いに流行(はやり)出して、下々の者、好みて食らう事と成りたり。寛政(1787~1800)に至りて、中人(中位の身分の者)以上にも好人あるごとく成りたり、この頃まだ下賤の食物として、御旗本の家にて食わぬ人多し。これも後々は屋敷に向へも出べし」つまり、まず庶民が食べるようになり、後には武士に至るまで広まったというのである。

 サンマが下魚とされた理由は、見栄っ張りな江戸っ子気質として、五月のカツオのような、さっぱりとした味と姿の美しさを尊び、脂が滴り黒く焼けたサンマの姿は下品に思えたのであろう。しかし一方で、サンマの美味さを良く知っていたことは「目黒のサンマ」の話からも伺える。

 なお、「目黒のサンマ」のモデルとなった殿様は、三代将軍・徳川家光公であるとの伝承がある。しかし、家光が将軍職にあったのは寛永年間前後(1623~51)で、当時はまだサンマ漁は始まっていなかった。実話だとしても、『梅翁随筆』の記述から考えて安政年間以降のことと思われる。

 ところで、サンマの名は細く真っすぐな魚を意味する「狭真魚(さまな)」が転じたとされ、江戸時代には明治かけては「三(さん)馬(ま)」の字が使われた。「秋刀魚」の表記は、文字通り秋に獲れる刀に似た魚から付けられたもので、明治の末から使われるようになった。
 
『梅園魚品図正』 天保六年(1835)より。

「神社新報」に掲載

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